[お偲び] 中曽根康弘 氏(元内閣総理大臣)

中曽根康弘(なかそね・やすひろ)
命日: 2019年11月29日
(東京都内の病院で)
年齢: 101歳
出身: 群馬県高崎市
肩書: 元内閣総理大臣
備考:葬儀は近親者で施行。
1941年、東京帝国大学法学部卒業後、旧内務省に入り、海軍主計少佐を経て47年4月、衆院旧群馬3区で初当選。以来、比例北関東ブロックも含め連続20回当選した(戦後最多)。54年に日本初の「原子力予算導入」を主導し、戦後日本の原発政策に深く関わった。国民民主党、改進党、日本民主党などを経て、55年の保守合同による自民党結党に参加。59年、岸内閣の科学技術庁長官として初入閣し、その後、運輸相、防衛庁長官、通産相、自民党幹事長、行政管理庁長官などを歴任した。66年に中曽根派を結成。少数派閥ながら「風見鶏」とも評された政治感覚で他派との合従連衡の政治を渡り歩き、鈴木善幸首相が退陣した82年11月の自民党総裁選で河本敏夫、安倍晋太郎、中川一郎の各氏を破り第11代自民党総裁となり、第71代首相に指名された。当初は田中角栄元首相の影響が強く「田中曽根内閣」と批判されたが、ロッキード事件で田中氏が有罪判決を受けた後は距離を置いた。新自由クラブとの連立のほか、安倍、竹下登、宮沢喜一のニューリーダー3氏を競わせる政権運営で基盤は強固となった。鈴木内閣の行管庁長官として第2次臨時行政調査会戦後最多(土光敏夫会長)発足に尽力。首相就任後も鈴木内閣の行革路線を引き継ぎ、党や官僚の頭越しに実行するトップダウンの手法を多用。民間活力を重視する「小さな政府」路線で、国鉄の分割・民営化や電電公社(現NTT)、専売公社(現日本たばこ産業=JT)の民営化を成し遂げた。ただ、国公有地の払い下げやリゾート開発を進め、首都圏を中心に地価高騰を招いたほか、選挙公約を破る形で売上税導入を図ったが、廃案に追い込まれるなど批判もつきまとった。外交・安全保障面では、東西冷戦の高まりを背景に「西側陣営の一員」の立場を鮮明にし、日米関係を「運命共同体」と位置付け、レーガン米大統領と「ロン・ヤス」と呼び合う親密な関係を構築。対米協力強化を図り、米戦略防衛構想(SDI)への研究参加、防衛費の国民総生産(GNP)比1%枠を突破する予算を編成するなど、米国との連携強化を明確にした。「日本列島を不沈空母のようにする」と発言。戦後の首相で初めて靖国神社を公式参拝し、中国などから強い反発を浴び、翌年から見送った。安倍晋太郎、竹下登、宮沢喜一3氏が「ニューリーダー」として党総裁の座を争う中、竹下氏を後継指名した。86年には衆参同日選に踏み切り、300議席を超す圧勝で総裁任期延長を勝ち取り、安倍、佐藤、吉田、小泉内閣に続いて戦後5番目に長い政権となった。首相退任後に未公開株の政財界への譲渡が問題となったリクルート事件が発覚、秘書らへの未公開株譲渡が明るみに出たほか、側近が受託収賄罪で起訴された。自身も国会で証人喚問を受け、自民党を一時離党した。91年に復党後は各国の指導者と会談して議員外交を展開。97年には現役議員ながら大勲位菊花大綬章を受章した。小選挙区制導入後は、党の比例ブロック終身1位として当選を重ねた。しかし、2003年、自民党の比例代表単独候補への定年制適用により小泉純一郎首相から引退を勧告され、公認を得られず政界を退いた。その後も、講演などで憲法や教育問題に関し積極的な発言を続けた。17年5月には著書「国民憲法制定への道」を出版。安倍晋三首相が掲げた憲法9条改正について、自衛隊を「自衛軍」として2項に明記すべきだと訴えた。同月の99歳の白寿を祝う会では「(改憲は)わが人生の願いだ」となお意欲を見せていた。
参照:
・ 中曽根康弘元首相が101歳で死去 国鉄民営化進める
・ 中曽根元首相死去、101歳 日米重視、国鉄民営化断行―「戦後政治総決算」掲げ
・ 中曽根氏合同葬を延期 政府・自民、新型コロナ拡大で

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