工藤壮人さんは

時代の波に翻弄されながらも

皆様とともに人生を歩んできました

幾多の苦難を乗り越えて

生き抜いてきた32年

[おくやみ]工藤壮人 氏(プロサッカー選手)32歳 2022年10月21日逝去

[お偲び] 工藤壮人 氏(プロサッカー選手)

工藤壮人(くどう・まさと)さん
命日: 2022年10月21日
年齢: 32歳
出身: 東京都
肩書: プロサッカー選手
備考:柏、米メジャーリーグ・サッカーのバンクーバー、広島などでプレー。今季宮崎に加入した。
参照:
・ 元日本代表の工藤選手死去 水頭症と診断、容体悪化―J3宮崎

工藤壮人さんの尊さは

時を越えて永遠に生き続けます

決して忘れられることなく

追悼の言葉があります

  1. 私は都内に住む19歳です。
    いわゆる”お年頃”なのでもちろん父との会話はありません。一緒に出かけることなどはもちろん、最後にいつ話したかも覚えていないくらいですが、私にも父が大好きで父とのお出かけを期待に胸を弾ませながら待っている時代がありました。そんな父とのお出かけの中でも1番の思い出が2013年8月17日に日立台で行われたvsベガルタ戦です。
    私の記憶に残る最も古い試合です。
    幼少期を三郷市で過ごし、松戸市の高校に通っていた父にとって、柏レイソルにはすごく愛着もあったようで、私に嬉しそうに柏レイソルの話をしてくれたことを覚えています。
    当時10歳の私はボールがゴールネットに入れば1点はいるというルールしか分からないため、細かな戦略はもちろん認識していませんでしたが、両チームの選手が入場した時最後を歩く工藤選手にすごく惹かれ、90分間工藤選手だけを目で追っていました。私にもなぜだか分かりません。ただ、10歳の私の目には工藤選手がすごくすごく魅力的に見えて仕方がありませんでした。
    その日、試合終了後に売店で購入した背番号9のストラップはちぎれるまで携帯につけていました。
    年齢を重ねていくにつれ、見る機会が減ってはいたものの、スポーツの中で唯一楽しんで見れる種目はサッカーでした。反抗期になり、父との会話がなくなってもサッカーだけは無号の中2人で見る日があったりもしたほどです。
    そんな私は高校に入ってからサッカー部のマネージャーをしました。
    「なんでマネージャーになったの?」という質問に「サッカーが好きなんだよね。」という在り来りな答えを返すとミーハーだろ。と疑う子も少なくなかったものの、「工藤壮人が一番好きなんだよね。」と言った瞬間「お前わかってるね。」と言われることも多々ありました。笑

    私にとって、工藤壮人は私の人生においてのサッカーへの架け橋の原点です。あなたがいなかったら、ここまでサッカーを好きになることもなかったし、マネージャーをする日も来なかったです。

    娘さんと笑顔で映っている写真を度々拝見して、その度に昔の自分を思い出します。
    そして、今はその写真を見る度に「この子は私のように”お年頃”だからパパとは喋らないというワガママすら許されなくなってしまったんだ」とおもって涙が出ました。

    こんな私でさえ、工藤選手のおかげでたくさんの経験が出来ました。きっと私と同じように、そして私以上に工藤選手の存在で救われた人は沢山いると思います。
    その事実がいつか、娘さんへ届く日が来ますように。
    これからも天国で工藤選手がボールを蹴ることが出来ますように。

    長くなってしまいましたが、心よりご冥福をお祈りします。

    ありがとう。


    ひな
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