[おくやみ]小山剛 氏(高齢者総合ケアセンター「こぶし園」総合施設長)60歳 2015年3月13日逝去

[お偲び] 小山剛 氏(高齢者総合ケアセンター「こぶし園」総合施設長)

小山剛(こやま・つよし)氏
命日: 2015年3月13日 14時47分
(新潟県長岡市の自宅で)
年齢: 60歳
出身: 新潟県長岡市
肩書: 高齢者総合ケアセンター「こぶし園」総合施設長
葬儀: 2015年3月19日
会場: セレモニーホール長岡会堂
新潟県長岡市南町1丁目1−11
備考:長岡市の高齢者総合ケアセンター「こぶし園」の総合施設長。郊外の特別養護老人ホームに入所していた高齢者が、住んでいた地域に戻って暮らせるようにするため、医療、介護、生活支援などを一体的に提供する「地域包括ケアシステム」をいち早く実践。被災地で高齢者や障害者を支える活動にも力を入れ、「災害福祉広域支援ネットワーク・サンダーバード」代表理事などを務めた。
偲ぶ会:
2015年5月31日
芝パークホテル
参照:
・ 小山剛氏が死去 地域包括ケアを実践
・ 小山剛氏死去
・ 小山剛氏が死去 地域包括ケアを実践
・ 小山 剛さんを「偲ぶ会」のご案内

10つの追悼の言葉があります

  1. 小山君、君が大学の社会事業実習で僕の勤めていた特養に実習生で来た頃が想いおこされます。あの時から君は熱血漢に溢れて福祉への情熱はすばらしいものでした。
    そして、大学を卒業後は、あけぼの学園から長岡療育園、そしてこぶし園と福祉の道を一筋に持ち前の懐の大きさで頑張ってきました。
    そんな肉体的にも精神的に強い君が、病に侵されて僕より先に別世界に旅立ってしまうなんて。とても信じがたいものがあります。僕が2年前に君と同じ病に侵され死の渕から帰還したのにと思うと。
    まだまだ、きっとやりのこしているものがあるでしょう。どうぞ別世界に旅立つ前に後輩達や僕らに、一言エールをいただきたいです。君の笑顔をもう一度みせてください。
    最後になりますが、どうぞ穏やかに気持ちをゆっくり休めてください。さようなら


    森  猛
    供花(カラー)
  2. 私の母は言っていました。こぶし園の小山さんにはお世話になったと。
    その頃小山さんはまだ相談員だったそうです。
    母は祖母の介護を20年くらいしていました。
    まだ措置の時代で、自由にデイサービスやショートステイが利用できなかったといいます。
    「困ったらいつでも連絡していいよ。」と小山さんは言い、相談するといろいろ調整してくれたそうです。

    今では福祉の世界の先頭を歩き遠い存在となっていましたが、母にとってはお世話になった相談員さんです。

    ご冥福をお祈りします。


    匿名
    供花(カラー)
  3. 先生を輪島の勉強会に来ていただき二次会のカラオケで1度もキイが合って無い逃すご意と言われたのが思い出されますありがとうございました。


    大工利彦
    供花(カラー)
  4. 法名 剛真院釋慈光 さん。
    剛さん、健康面のイメージは、名前そのものかと思っていました。
    そして、気は優しくて柔軟的発想で目から鱗の視点。
    お話しは、わかりよい例えがいっぱいでした。

    井上陽水、ギター、ピアノ、読書、アルコール、車、仕事、こぶし園が大好きでした。
    奥様、子どもさんたちを語るときは、愛情が溢れていました。
    仲間を大切にする方でした。

    人間の幅があって、末端の私たちとも気さくにお付き合いしてくださる方でした。
    生き方、つきあい方も、まさに包括的、重層的な方でした。

    福祉、介護の魅力を引き出してくださり、モチベーションをあげていただきました。
    長岡詣で、小山詣で、貴方を訪ねては、細い目の笑顔で出迎えていただき、悩みは消え、ほっとさせていただきました。

    私は貴方のファンです。貴方が大好きです。
    お世話になり、心より感謝です。

    いまは、とりあえずさようならともうします。
    いずれ、そちらのほうでお会いしたいと存じます。

    ご冥福をお祈りいたします。

    ありがとうございました。


    匿名
    供花(カラー)
  5. 私は、新潟県長岡市の地で、同じ福祉の仕事をしていた一人です。
    小山さんとは多少方向性は違えども介護の世界で、住み慣れた地域で最期まで暮らせるために・・・を目標に仕事をしていました。
    稀に、小山さんが新潟にいられる時に、少々ご馳走になった記憶もあります。雲の上のような存在でしたが、人間味溢れる温かい塊のような人でした。
    今、あらためて小山さんの偉大さを痛感すると共に、長岡の空の下で、一緒に仕事をさせていただいたことに、誇りを感じています。
    そして、小山さんの意思を少しでも後進たちに伝え、発展させていきたいと思っています。
    60年間、お疲れ様でした。ゆっくりとお休みください。


    匿名
    供花(カラー)
  6. お父さん。
    四十九日となりました。いよいよ向こうの世界に旅立ってしまいますか。

    私たちはいまだにお父さんが居なくなったことを受け止めきれないでいます。出張が多くて、家に居ないことなんてよくあったのに。もう会えないことが、まだ信じられません。
    本当にギリギリまで、一生懸命、仕事をしていましたね。私たちの想像を越える、本当に多くの人に見送ってもらい、言葉をいただき、これがお父さんのしてきたことなんだと驚きました。元気な時に感謝、尊敬の言葉を伝えられなくてごめんなさい。
    腰が痛いって、いつも言ってたのに…気がついてあげられなくてごめんなさい。還暦のお祝いもしてあげられなかったね。いっぱい悔やまれることがあるよ…。
    でも、家で最期を迎えてくれてありがとう。
    私たちがいつもの生活に戻るには、もう少しかかりそうです。お母さんを支えて今まで通り仲良く暮らします。みんなそれぞれ頑張るから、お父さんはゆっくりしててね。時々は可愛い孫を見に来て。夢にも出てきてね。

    ありがとう。お父さん。
    じゃあ。またね。

    「とてもやさしい追悼の言葉をいただきありがとうございます。私たちの知らない仕事の父を知ることが出来ます。意外と寂しがり屋でしたので、どうか、いつまでも忘れず、お酒の席などで時々話に出してください。」

    供花(カラー)
  7.  遠方の地であなたをいつも想っていました。5年前に突然の電話で再会の約束。楽しかったです。あなたにとって先輩でも当時は福祉の仕事とは関係はなかった私が今は福祉の仕事に携わりながら、あなたの偉業に感動を覚えたのを忘れません。学生時代共に歌い青春時代を謳歌した私たちはそれぞれの道で生きてきました。人を思う気持ちは、仕事だけでなくあなたの生き方そのものだと思います。
    早い旅立ちは残念でなりません。残されたものとして、精一杯生きていくことであなたの思いに近づけたらと思います。
     昨年一緒に語り飲み、歌った思い出がついこの間のことのように思います。仕事が忙しく、家を空けることを残念と話しながらも、福祉未来のことを語るあなたを頼もしく見ていました。
     偲ぶ会の席に出席できず残念です。
     ご冥福をお祈り申し上げます。

                             北海道  遠別町 松橋秀和


    匿名
    供花(カラー)
  8. 気仙沼に、何度も足を運んでくださいました。
    一度、夜に、一緒に、飲み食いをいたしました。
    わたしは車で駆けつけたので、ノンアルで対応いたしましたが、
    小山さんは、ガンガン飲んでおりました。少し、心配しました。
    わたしが若干、年長なので、諭すことができればと後悔しております。
    あの頃は、周りで心筋梗塞などで、倒れる方々が大勢おりました。
    ストレスは思いがけない部位に、容赦なく、襲い掛かります。
    冥福を祈ります。


    匿名
    供花(カラー)
  9. 間もなく三回忌です。
    いま、どうしていますか?
    年に2回程度の研修(呑み会)。
    あとは年賀状とメール、たまに携帯。
    いつもお会いしている関係でないからか、
    長岡に行くと会えるような感覚がまだありました。
    葬儀に出ても永遠のお別離れとは思えない自分がいました。
    でも、老年問題セミナー2017にあなたの姿はなく、遺影でした。
    ご家族には申し訳ないのですが、無性に会いたくさびしくなっています。
    三回忌は仙台に出かけ、仲間を呼びつけ、言いたい放題、ぼろくそに偲んできます。


    匿名
    供花(カラー)
  10. 小山さんとは、それほど深いかかわりがあったわけではありません。私は特養の生活指導員をしていた頃、箱根で全国生活指導員研修会が開催されました。研修会の後の広い宴会場で懇親会があったのですが、そこの近くにいた私にお酌をしていただいたのが最初の出会いです。そのあと宿泊室へ移動して、四人ほど若い生活指導員で夜遅くまで話し込んだのです。どこでも研修会でテーマになったのが、「生活指導員って何だ?」という問題です。その時もその話になりました。小山さんはいとも簡単にその問題解決のヒントを与えてくれました。中間管理職と専門職の交差するので混乱を生じるのだ。専門性に徹すれば自ずと答えは出る」というのです。そういうコメントは、今まで聞いたことがなかったのです。今まで悩んでいたことがウソのように消えました。またその時の会話の中で、雪国の方らしく「車はギヤをセコにいれ、雪の坂を上るんだ」とジェスチャーを入れながら、話をしていただいた事も、南国生まれの私にとっては楽しい驚きでした。もう会えないかなと思っていたら、2012年四国老人福祉学会の記念講演をされるために香川県にやってこられました。講演の後、簡単に挨拶をさせていただきました。講演で、初めて震災後のご活躍を知りました。その後新聞で、逝去されたことを知り、大変に残念な気持ちでした。お別れの言葉を読んでみると、たくさんの人々に愛されていたんだとあらためて思います。わずかな時間しか話ができなかったですが、感謝をしております。


    水野喜代志(愛媛)
    供花(カラー)

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