備考:葬儀は近親者で施行。
1933年、須坂高等女学校卒業後、文化裁縫女学校(現、文化服装学院)に入学した。卒業後、同学院の助手となる。1940年、商社勤務の男性と結婚し北京へ転勤となる。1944年には2人の娘を連れて帰国。1945年、夫が沖縄で戦死。1945年、文化服装学院に復帰し、1951年デザイン科を新設し初代デザイン科長に就任。1954年、38歳のとき母親に娘2人を預けて単身渡仏、南回りの船で1ヶ月かかってパリに留学した。パリ・クチュール組合学校「サンディカ」で学ぶ。クラスメイトにイヴ・サンローランが、隣のクラスにはカール・ラガーフェルドがいた。フランスではオートクチュールの立体裁断に衝撃を受ける。1年後、無一文でフランス製の人台を1つだけ抱えて船で帰国。帰国後は、日本人に合う立体裁断用の人台を開発。また、1957年から文化服装学院として男子学生の入学を開始するなど、ファッション業界の発展に貢献する。文化女子短期大学(現、文化学園大学)教授、文化服装学院副院長を歴任し、1983年、同学院の10代目学院長に就任。1991年より2002年3月まで名誉学院長として活躍した。文化服装学院では、高田賢三、山本耀司等多くのファッションデザイナーを育成し、日本のファッション界を世界的レベルに押し上げた。有名デザイナーのコシノ・ヒロコさん、ジュンコさん姉妹も教え子。その実績から日本ファッション界の「ゴッドマザー」と呼ばれ、日本以外でも「マダム・コイケ」として有名である。故郷、長野県須坂市に世界90数ヵ国の民俗人形1,200体あまりを寄贈し、1997年に須坂市に開館した「小池千枝コレクション・世界の民俗人形博物館」に収められている。
|