[おくやみ]石澤隆太郎 氏(元飯田川町議会 副議長)97歳 2015年12月13日逝去

[お偲び] 石澤隆太郎 氏(元飯田川町議会 副議長)

石澤隆太郎(いしざわ・りゅうたろう)氏
命日: 2015年12月13日 17時29分
(秋田県秋田市の病院で)
年齢: 97歳
肩書: 元飯田川町議会 副議長
葬儀: 2015年12月17日
会場: 虹のホール レゼール湖東
秋田県南秋田郡井川町浜井川杉ノ実170−1
備考:62年から旧飯田川町議連続7期。86年から90年まで副議長。84年から93年まで同町商工会長。戦後、旧ソ連のシベリアに抑留され、その経験を講演で伝えてきた。洗尽(せんじん)の俳号で俳人としても活躍した。
参照:
・ 石澤 隆太郎氏(いしざわ・りゅうたろう=元飯田川町議会副議長)

3つの追悼の言葉があります

  1. 飯田川短歌会(1月歌会) 第四百六十二回 詠草  
     故 石澤洗尽 追悼歌会

    平成二十八年一月十四日(木)午後一時~飯塚児童館

    シベリアの俘虜の苦しみ句日記に講演続けし吾が師を悼む   伊藤徳ゑ

    張りのある声と優しきこころ持ち導きたまひし師を忘れまじ    小玉喜久子

    シベリアの過酷な日々に耐えし師は天寿を全う永遠の旅路に  三浦克己

    師の言葉未知の扉を開くよに導きし道 歌集の中に        二田カチ子

    ツンドラの花をあわれむ行軍の空しさ説きぬ平和であれと    佐々木香代子

    「寒さにも辛さにも耐えたね、父さん」と崩れさふなるみ骨を拾う 加藤トシ子


    匿名
    供花(カラー)
  2.  父は、終戦のとき、陸軍中尉で北千島の守備隊におりました。
     武装解除の直後、突然のソ連軍の侵攻により捕虜になり、ソ連に抑留されました。
     激寒の土地での苦役をしのぎながら、父は俳句を作り日記にしておりした。
    俳句を作ることは、父にとって耐え忍ぶための心の支えでした。
     幸い、帰国してからは、細々と商売をしながら、母とともに俳句・短歌を通じて地域の皆さまとの交流を楽しみにしておりました。

     しかし、3年ほど前からは、作らなくなりました。16歳で俳誌に投稿して以来の習慣が途絶えたのです。

     しかし、昨年の秋のことでした。
     深夜、煌々と父の寝室のある母屋に明かりがついていました。怪訝に思い、行ってみると父は廊下の端で掃き出し窓のガラスに頭を持たれかけて、居眠りしていました。外には満月が輝いていました。
     父さん風邪をひくよ、寝床に行って寝ようと声をかけました。目を覚ました父は、「風流に触れていれば寒くなんかない大丈夫だ」と答えました。
     迷って帰れなくなったと思っていた私は、父のユーモアと自然を愛でる気持ちが失われていないこと気づきました。 
    「風流に触れていれば寒くない」という言葉は父の残した言葉として私の胸に刻み付けておこうと思います。


    公隆
    供花(カラー)
  3. おじいちゃん、

    私は、1ヶ月半ほど前に、今住んでいる、アメリカのシカゴ郊外で男の子を出産しました。子供が産まれて間もないので、病院にお見舞いにもいけず、お葬儀にも出席できなくてごめんなさい。おじいちゃんにきちんとお礼とお別れをできないままになってしまって悲しいです。

    幼いころからおじいちゃんには数え切れないくらい沢山のことをしてもらったけれど、特に英語と海外のことに興味を持っていた中学2年生の時に、オーストラリア、高校一年生の時にはネパール行かせてもらったことがきっかけになって、その後は、外国で暮らすこと、世界を見ることが私のテーマになり、大学進学や職業の選択など、その後の人生の節目節目で選択をするうえで大きな影響になりました。強い海外への興味をサポートしてもらったことがきっかけになって、今こうしてアメリカで働いて、家庭をもっている今の生活があることに感謝しています。

    一緒に暮らしていたから、当たり前に思っていたけれど実は貴重だったり幸運だと気がついていなかったことが沢山ありました。私が秋田で働いていた時に、おじいちゃんがキャッスルホテルでシベリアで捕虜になった経験についての講演があって、仕事後に聞きに行きました。寒さや支給された食事が豆40粒だったことなど、幼いころから何度も聞いていたので、内心、その経験談についてはすべて聞きつくしていると思っていましたが、今まで聞いたことのない話を、興味深く、観客をひきつけて話すおじいちゃんをみて、驚いたのと同時にとても誇らしく思いました。そして、私が何気なく日常的に聞いていた話が、講演で話を聞くために人が集まるような貴重な経験談だったと初めて気がつきました。

    私の子供時代のおじいちゃんを思い返してみると、いろんな経験と広く興味を持っていた人だったんだと改めて気づきます。シベリア抑留中の日記をコートの裏地との間に隠して持ち帰ったこと、俳句や出張のたびに各地から買い求めてきた土鈴コレクション、ずっと書き続けていた日記。そんなおじいちゃんがいて幸運だったなと思います。

    子供が産まれてからのこの一ヵ月半に、自分の子供時代を思い出すことが多くなりました。同じ昔話を夕食後におじいちゃんのひざに座って聞くのが習慣だったのをうっすらと覚えています。話の内容はもう思い出せませんが、終わりがいつも「とっぴんぱらりのぷう」だったのを思い出し、なつかしくなりました。こんな、普段は忘れてしまっていたり、私の記憶にはない、かわいがってもらった経験が他にも沢山あるんだろうなと思います。これからも子供が大きくなるにつれて、ふと自分の子供時代を思い出すのかなと思います。

    おじいちゃんには数え切れないほど、いろんなことしてもらったけれど、お返しにおじいちゃん孝行らしきことをちっともしてなかったと後悔しています。愛情をもって、小さなことから大きなことまで、いろんなことしてくれていたんだね。自分が親になって、そしてお父さんとお母さんがおじいちゃんとおばあちゃんになるのを見て、今は分かります。一番新しいひ孫に会ってもらえなくて残念です。

    おじいちゃん、お世話になりました。ありがとう。


    真紀子
    供花(カラー)

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供花(カラー)