[おくやみ]加藤紘一 氏(元内閣官房長官、元自由民主党幹事長)77歳 2016年9月9日逝去

[お偲び] 加藤紘一 氏(元内閣官房長官、元自由民主党幹事長)

加藤紘一(かとう・こういち)氏
生誕: 1939年6月17日
命日: 2016年9月9日 12時45分
年齢: 77歳
出身: 山形県鶴岡市
肩書: 元内閣官房長官、元自由民主党幹事長
葬儀: 2016年9月12日
備考:自由民主党と加藤家の合同葬が、9月15日正午から、青山葬儀所(東京都港区南青山2丁目33−20)で。葬儀委員長は安倍晋三首相(自由民主党 総裁)。
東大法学部卒業後、外務省に入省した。1972年の衆院選で旧山形2区から自民党公認で初当選。当選は13回を数えた。大平派(宏池会)に所属。大平正芳元首相の薫陶を受け、「宏池会のプリンス」と期待された。衆院当選2回で大平内閣の官房副長官を務めた後、中曽根内閣で防衛庁長官として初入閣した。91年、小泉純一郎元首相、山崎拓元党副総裁との間で「YKK」と称された盟友関係を結び、党内を牛耳っていた最大派閥の竹下派(経世会)支配の打破や世代交代を目指した。宮沢政権では官房長官、橋本政権では党幹事長に起用された。98年に宮沢喜一元首相から宏池会会長を引き継ぎ、政界ではこの時期、首相に最も近い人物と見られていた。小渕恵三元首相が進めた自由、公明両党との3党連立政権に異を唱え、99年の自民党総裁選で山崎氏とともに小渕氏に挑んだが敗北。総裁選後は冷遇され、反主流派に転じた。2000年11月、野党提出の森喜朗内閣に対する不信任案に同調しようとして失敗。派閥は分裂し、総裁候補としては事実上失脚した。02年、自身の元事務所代表の脱税事件で責任を問われて派閥会長を辞任し、自民党を離党。その後、議員辞職に追い込まれた。03年衆院選で再起を果たし、自民党に復党したが、14選を目指した12年衆院選で落選し、政界を引退。14年5月には共産党機関紙「しんぶん赤旗」のインタビューで、安倍政権による集団的自衛権の行使容認を批判していた。加藤鮎子自民党衆院議員(山形3区)は三女。
お別れの会:
2016年10月10日
グランドエル・サン
委員長:遠藤利明 さん
(自由民主党山形県支部連合会 会長)
参照: ウィキペディア
・ 加藤紘一氏が死去 自民幹事長や官房長官歴任
・ 加藤紘一・元自民党幹事長が死去 00年に「加藤の乱」
・ 加藤紘一さん死去77歳…自民元幹事長、「YKK」
・ 故加藤紘一氏のお別れの会の日程、元自民党幹事長
・ 故加藤紘一氏のお別れの会 10月10日、山形県鶴岡市で

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