[おくやみ]古賀稔彦 氏(柔道家)53歳 2021年3月24日逝去

[お偲び] 古賀稔彦 氏(柔道家)

古賀稔彦(こが・としひこ)氏
命日: 2021年3月24日 9時9分
(神奈川県川崎市の自宅で)
年齢: 53歳
出身: 佐賀県
肩書: 柔道家
葬儀: 2021年3月29日
備考:兄の影響で柔道を始めた。中学進学と同時に東京・世田谷の柔道の名門私塾「講道学舎」に入門。世田谷学園高、日体大と歩むなかでトップ選手に台頭し、18歳ながら嘉納杯国際大会で優勝。小柄ながら切れ味の鋭い豪快な一本背負い投げで「平成の三四郎」の異名を取った。金メダル確実という前評判だった88年ソウル五輪は3回戦で敗退した。日本選手団の主将に起用された92年バルセロナ五輪は絶対的な金メダル候補として臨んだが、大会直前に左膝の靱帯を負傷。肩を借りないと歩けず、試合までほとんど体を動かせないなかで減量し、本番は痛み止め注射を打ちながら戦った。準決勝は代名詞の一本背負い投げで鮮やかな一本勝ち。痛みをこらえた決勝は旗判定をものにし、悲願の金メダルに輝いた。96年アトランタ大会では78キロ級で銀メダルを獲得。体重無差別で日本一を争う90年の全日本選手権では大型選手を次々に撃破。決勝で重量級の第一人者だった小川直也に敗れたものの、その奮闘は大きな話題になった。世界選手権は89、91年で連覇を達成。2000年の現役引退後は指導者として後進の育成に努めた。特に女子の指導に長く携わり、日本女子チームの強化コーチを務めた。代表コーチを務めた04年アテネ五輪では63キロ級の谷本歩実を金メダルに導いた。07年から柔道部総監督に就任した環太平洋大学(岡山)でも東京五輪代表の素根輝選手らを指導。トップ選手だけでなく、川崎市内に町道場「古賀塾」を開くなど、「人の役に立つ柔道家を育てたい」と子どもたちの指導にも力を注いだ。柔道の指導法に医学的な視点を採り入れたいと、40歳で弘前大学大学院にも合格。医学博士号を取得した。東京五輪の聖火リレーでは、佐賀県のランナーに選ばれていた。
参照:
・ 古賀稔彦さんが死去 「平成の三四郎」、五輪柔道金
・ 「平成の三四郎」古賀稔彦さん死去 53歳バルセロナ金
・ 柔道金メダリストの古賀稔彦さん死去 53歳、「平成の三四郎」

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