[おくやみ]武村正義 氏(新党さきがけ 元代表、元衆議院議員)88歳 2022年9月28日逝去

[お偲び] 武村正義 氏(新党さきがけ 元代表、元衆議院議員)

武村正義(たけむら・まさよし)氏
命日: 2022年9月28日
年齢: 88歳
出身: 滋賀県
肩書: 新党さきがけ 元代表、元衆議院議員
備考:葬儀は近親者で施行。
東大経済学部を卒業し、62年、旧自治省に入省。郷里の滋賀県八日市市長を経て、74年に滋賀県知事に就任。全国で初めて自ら資産公開を実施。「環境主義」を掲げ、有リン合成洗剤の使用禁止などを定めた「琵琶湖富栄養化防止条例」を制定するなど、先駆的な政策を打ち出して注目を集めた。86年、衆院旧滋賀全県区で自民党から初当選。連続当選4回。後藤田正晴氏らに師事し、自民党政治改革本部事務局長を務めるなど政治改革論議を主導。93年6月、政治改革を訴え、鳩山由紀夫氏(元首相)らと同党を集団離党してさきがけを結成した。93年8月、知事仲間で親交が深かった日本新党の細川護熙代表を首班とする非自民連立政権に加わり、官房長官に就任。小選挙区比例代表並立制の導入などの改革実現に努めた。しかし、細川政権では小沢一郎・新生党代表幹事と政権運営をめぐって対立。94年4月の細川内閣退陣を受けて連立を離脱。94年6月には自民、社会、さきがけ3党連立にかじを切り、村山内閣の蔵相に就いた。「小さくともキラリと光る国」というキャッチフレーズを掲げ、当時、小沢氏が唱えた「普通の国」に対抗。少数政党を率い、当選回数が少ない割に有力ポストを相次いで務めたことから「バルカン政治家」との批判も浴びた。風貌から「ムーミンパパ」とも呼ばれた。96年の旧民主党結党時には、鳩山氏から入党を拒まれ、「排除の論理」という流行語を生んだ。2000年の衆院選で落選し、01年に政界引退を表明した。
お別れの会:
2022年12月18日
コラボしが21
参照:
・ 武村正義さん死去 元新党さきがけ代表、非自民連立政権で官房長官
・ 武村正義氏死去、88歳 細川内閣の官房長官
・ 故武村正義氏のお別れの会 元新党さきがけ代表

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