[お偲び] 沢井余志郎 氏(四日市公害の語り部、四日市再生「公害市民塾」前代表) |
沢井余志郎(さわい・よしろう)氏 | |
生誕: | 1928年8月3日 |
命日: |
2015年12月16日 13時14分 (三重県四日市市内で) |
年齢: | 87歳 |
出身: | 静岡県浜松市 |
肩書: | 四日市公害の語り部、四日市再生「公害市民塾」前代表 |
葬儀: | 2015年12月18日 |
会場: |
四日市中央斎奉閣
三重県四日市市芝田1丁目5−31 |
備考:戦後、四日市市内の紡績工場勤務を経て労働団体職員になり、公害問題に携わった。同市は1950年代後半から石油コンビナートの進出で大気汚染が悪化。「四日市ぜんそく」が社会問題になる中で、16ミリカメラや録音機を携えて公害の実態を記録した。また、患者の自宅や病室を訪問し、被害者の声に耳を傾け、記録してガリ版文集にまとめるなど実態を伝えることで、公害反対運動を裏方として支え続けた。72年7月の津地裁四日市支部による住民勝訴の判決後は、公害の教訓を後世に残そうと反対運動の歴史の保存に取り組んだ。四日市公害の「語り部」役を担い、公害時代に児童がのどを洗浄した「うがい場」が残る市立塩浜小などで、県内外の小中学生を相手に公害教室を開いてきた。企業が事故などを起こすたびに「四日市公害は終わっていない」と警鐘を鳴らし、後年は「これからは反対、反対ではなくて、工場と住民、行政のトライアングルが適度な緊張感を保つことが、四日市が本当によみがえることにつながる」と強く主張した。 02年の判決30周年以降は大阪市の「あおぞら財団」などとともに、各地の公害訴訟の裁判資料を保存・活用するネットワーク作りにも努めた。96年には、公害反対、環境保護などの功労者をたたえる「田尻賞」を受賞。90年代以降は、公害資料館の設置を四日市市に要望し続けた。長年の活動が実って15年3月、資料館「四日市公害と環境未来館」がオープン。写真など多数の資料を寄贈し、市から感謝状を授与された。 | |
参照:
ウィキペディア
・ 四日市公害語り部の沢井余志郎さん死去 87歳 ・ 沢井余志郎さん87歳=四日市公害の語り部 ・ 沢井余志郎氏死去 四日市ぜんそく語り部 |